茶話団欒(六十七)
 
 
 鈴木大拙さんの「無心ということ」の続きであります。先月は「佛智不思議の世界」というお話でした。今月は「手を把って行き得べき祖師方」というお話であります。

 とに角一遍、形あり義ありと見たものを脱ぎ捨てた世界に入り込まなければならないのである。心身脱落の世界は無分別の世界・無心の世界である。この無心を体得する時に往生すると云ってよいのである。死んでから極楽に行ってもよし、地獄に行ってもよし、どこへ行ってもそれでいいと云う特地の境界(きょうがい)である。極楽へ行かねばならんと云ったり地獄へ行っては大変だというのは「学匠沙汰(がくしょうさた)」であって、往生必定(おうじょうひつじょう)の人にはないことである。どうしてもこういう不思議な世界に一遍行ってみないことには本当の往生の意味が徹底せず、「佛と佛の計らい」が會せられないのである。「無極の兩體が照らし合って、その間に影像無き」、これが無心である。

 極楽の鏡が娑婆の鏡に映り、娑婆の鏡が極楽の鏡に映り、無極の兩鏡がお互いに映り合うと云う出来事を浄土門では「機法一體」と云うのである。正覚の端的、即ち機法一體ということを出ないのである。阿彌陀の願行がやがて吾等の願行で、これを南無阿彌陀佛の一句子(いちくす)にまとめて吾等の面前に抛向(ほうこう)したのが浄土真宗先達の霊眼なのである。

 「安心決定抄」に此の意が頗る明白に述べられている。「いま云うところの念佛三昧は、われらが稱・禮・念ずれども自の行にはあらず、ただ是れ阿弥陀佛の行を行ずるなり。というは、歸命の心が本願に乗りて、三業みな佛禮の上に乗じぬれば、身も佛を離れたる身にあらず心も佛を離れたる心にあらず、口に念ずるも機法一體の正覚のかたじけなさを稱し、禮するも他力の恩徳の身に餘るうれしさを禮する故に、我等は稱すれども念ずれども機の功をつのるにあらず。ただ是れ阿弥陀佛の凡夫の行を成ぜしところを行ずるなりと云うなり。佛禮無為無漏なり、依正無為無漏なり。されば名體不二の故に名號もまた無為無漏なり。かかるが故に、念佛三昧になり返りて専らにしてまた専らなれと云うなり。」。三昧になるということは、無心の義に外ならないのである。無心を他力と解してもよいのである。(無為=因縁に依らない眞実在、無漏=一切の煩悩を離れて残らないこと。依正の依=環境世界、依正の正=我々の心身)

 南無阿彌陀佛が南無阿彌陀佛を稱える時、本当の無心の動きが見られるのである。極楽と娑婆とが兩鏡相照して、その間に影像無きが如きとき、機法一體の消息が見られて善悪を超越して絶対価値の世界に入ることが出来るのである。それが無心の端的であり何ら人間の計らいを容れない「只今」なのであり、宗教體験の極地はここに外ならないのである。

 信心決定した人は、身も南無阿彌陀佛・心も南無阿彌陀佛(安心決定抄)であり、これほど明明白白地に他力の信仰の向うところを指示したものはないのである。一遍上人もこういうところを見ておられたので、人によって力点は違っても結局は何れも「無心の境界(きょうがい)の人々」であって手を把って行き得べき祖師方なのである。

 今月は此処までにします。  
                              合 掌