|
茶話団欒(六十三)
鈴木大拙さんの「無心ということ」の続きであります。先月は「菩薩子(ぼさつし)喫飯來(きっぱんらい)」というお話でした。今月は「極楽の実在性」というお話であります。
無量壽經で、佛が阿難に極楽を見せてやろうと云うと極楽が見えて佛が拝まれるのであるが、四衆も見えるのである。そうして無量壽經の聴衆は皆んな極楽世界を見ているのである。それだけではなくて「彼よりこの土を見るまた斯くの如し」と、極楽からも吾等の居る娑婆世界を見るというのである。極楽が西方何十萬億土の向うにあっても此方(こちら)が極楽に映る極楽が此方(こちら)に映るということは、何かここに意味を持たせ得るものがなくてはならないのである。 極楽にはどういう人々が居るかというと、無量壽經には「顔貌端正世に超えて稀有なり、容色微妙であって天にあらず人にあらず(=人間的形質を持っていないの意)、みな自然虚無の身無極(むごく)の體(=定まった相(すがた)のないの意)を受けている」と書いてある。これによると極楽在住の人々は三次元幾何学の世界に居るものではないのである。三次元で規定されるべき形體というものを持っているものではないのである。従ってこういう人々の居る極楽と云うものは、三次元で考えるべきものではないのである。 。 自然虚無だの無極(むごく)だのということになると、幾何学世界にも非幾何学世界にも関しない全然別個の世界を見た人でなければこういうことは云えないのである。極楽の形容も其処に住んでいる人々の形容も、つまりは自然虚無の身で無極(むごく)の體を持っているものであると、こう見なければならないのである。こんな身や體をもった人々のいる世界が極楽であるというと、極楽も亦幾何学世界や非幾何学世界で見るべき世界ではないのである。やはり極楽は無極(むごく)の體を具えたものと見るに相応しい世界でなくてはならないのである。 お經を読むと佛身と佛國土とは離れられない関係をもっていることが分かるのである。即ちここに體というものがあれば、それを入れている土というものが屹度あるのである。身と土というものは形影相伴うべきなのである。従って體があれば、それを置く國土がなければならないのである。そうして此の土と體は性質に於いて相一致したものでなければならないのである。それ故、浄土という國土には阿彌陀という光明に満ちた體をもったものがいなければならないのである。また阿彌陀の側から云えば阿彌陀と云うような光明の佛様は極楽國土という國土に居なくてはならないのである。 娑婆のような處には、五欲煩脳に満ちて斬れば血の出るような體を持ったものが居なければならないのであり、これで身というものと土というものとが相応しいのである。天人は天上界、人間は人間界なのである。大きな金殿玉楼に穢(きた)ない着物を着て汗泥にまみれた者は相応しくないのである。身があれば土があり土があれば身があるのである。 虚無の身で無極(むごく)の體を持つ、そういう存在があるとすれば、それを入れるところの國土も亦虚無無極(むごく)の國土でなければならないのである。 今月は此処までにします。 合 掌 |