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茶話団欒(六十)
鈴木大拙さんの「無心ということ」の続きであります。先月は「無分別の作用」というお話でした。今月は「浄土と無心」というお話であります。
眞宗の立場、他力の立場から見ると無心とか無分別というようなことは云わなくて、「義なきを義とす」とか「計らいをもたぬ」とか「自然法爾」とか「無礙の一道」等と云って、どうしても浄土と穢土とを分けるのである。この浄穢とは「分別の世界」を云うのである。相対抗するものをキチンと分けてその間は連続出来ないとするのである。 互いに対立していて其の間に連絡がない、それを連絡するには「片方から片方に飛び越えなければならない」と云うのである。それで眞宗では「往生」というような言葉でこの間の飛躍現象を云い詮(あらわ)すのである。計らいのあるところから計らいのないところ、義理のあるところから無義のところへ「横超しなければならない」のである。 禅宗の行き方をこういう方面から見ると、獨坐大雄峯というところ、凛凛たる威風四百州を圧するところは「一座蓮華臺未曾有」になるのである。佛は蓮華臺に坐られたまま一歩も動かないと云うのである。蓮華臺にジッと坐っておられるとはどういう意味であろうか? 佛はこの世界では色々な形になって出てこられるかも知れないが、佛の根拠とされている極楽浄土では蓮華臺上に踞坐(こざ)して一歩も其処を動かず永劫の昔から永劫の未来に至るまで、ジッと坐っておられるということが面白いのである。其れを禅宗的に云えば一坐不移が「獨坐大雄峯」なのである。「乾坤只だ一人、凛凛たる威風四百州に振るう」ということになるのである。 ところが阿弥陀佛では、獨坐大雄峯だけではその働きが出ないのである。そこから「本願」というもの、所謂佛祖の靈機輪なるものが動いて出なければならないのである。本願がなくてはならないのであり、誓いが動かなくてはならないのである。この動きがあるので衆生が本願にすがって助けられるのである。即ち衆生は「南無阿彌陀佛」と唱えて、その一念で助かるのである。この一念の南無阿彌陀佛が禅宗に於ける「僧禮拝す」というところになるのである。 これを禅宗的な云い方に翻訳してみると、獨坐大雄峯の彌陀に於いて「機輪が轉ずる」のである。轉じて兩頭に走れば「衆生世界と極楽世界とが分かれる」のである。彌陀の本願が出る、この本願という誓いは衆生世界が別れ出てから動くのではなくて、誓いとその対象たる衆生は「同時發動」なのである。一念發得して「南無と唱えると同時に佛の側に於いては正覺が成ずる」のである。 禅宗に於いて「如何なるか是れ奇特の事」と討ね出す時に已に「僧禮拝す」の機(はたらき)は熟しているのである。獨坐大雄峯と肯定して、その肯定に対して「僧禮拝す」と一から二に移るのは人間の意識の跡から見ての説話なのである。 南無阿彌陀佛の名號は蓮華臺上の佛の邊で既に成就しているのである。吾等の衆生の根本命脈には此の不思議の用處があるのである。 今月は此処までにします。 合 掌 |