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茶話団欒(五十七)
鈴木大拙さんの「無心ということ」の続きであります。先月は「極楽へ往生する」というお話でした。今月は「驢馬を渡し馬を渡す」というお話であります。
彼(あれ)はあれでよい是(これ)はこれでよいと肯定しておいて、そのままに其れに即している世界がある。そういうものを見ておくと、今自分が斬殺されても死なないということになるのである。血が流れて息が止まっていても、対立の世界から見ている貴方方(あなたがた)が「死んだ死んだ」と云うだけで自分は死んでいないのである。死んだと見られている自分から云ったら死んでいないのである。天地と共に生きているのである。此処に落ち着かないと気がすまないのであり、心の中から何だか可笑しいものがヒョコッと出てきて心が動揺して安心出来ないのである。此処に落ち着くと、腹は減るし金もあったほうがいいと思うが、そういうものがありながら「木石の如し」で是れは死んでいないのであり生きているのである。 親しい人愛する人が死んだとする、それを否定しないのみか自分は慟哭するが、何處やらに慟哭しないものがチャンと其処に居るのである。慟哭する者と一緒に慟哭しながらチャンと「無喜無憂という奴」が居る、是れが事実なのである。是れが認められないと話しにならないのである。喜びもなく憂いもない處に於いて「無心」ということを感受してみたいのである。 趙州(じょうしゅう)という處に當時天下に喧しい石橋があったが、其処の「観音院」に住した從 (じゅうしん)という和尚がいたのである。有名な和尚である故に、普通は「趙州(じょうしゅう)和尚」と云っているが、ある坊さんが趙州(じょうしゅう)和尚を尋ねてきて「天下に喧しい石橋があると聞いて來たが単なる丸木橋じゃないですか」と云ったのである。すると趙州(じょうしゅう)和尚は「お前には丸木橋しか見えないから石橋は分からないのだ」と云ったのである。吾等は同じ物を見ているように思っているが、實は自分だけの世界を見ているのである。人は皆主観で見るから「こっちの方が本当だ」といって喧嘩ばかりして納まりがつかないのである。人間世界は各自が主観世界を造って其の世界に坐り込んでいるから喧嘩世界であるといってよいのである。石橋を見る眼があれば石橋が見える。丸木橋だけしか見えない眼ならば丸木橋以上には出ないのである。 そこで尋ねてきた坊さんが「石橋とはどういうものですか」と問うと、趙州(じょうしゅう)和尚は「驢馬を渡し、馬を渡す」と答えたのである。「驢馬を渡し、馬を渡す橋」は自動車が通っても日本人が通っても一向に平気でいる。この話しをロンドンの學者や宗教家が集まる会合で持ち出したら皆んな大いに気に入って喝采を博したのである。日本なら何でもない話しがロンドンでは珍しかったのである。 趙州(じょうしゅう)和尚の拶處にはカンと叩けばカンと鳴り、ゴンと叩けばゴンと鳴るところがあるが、電光石火的な機(はたらき)だけではないのである。鷹揚というか寛容というか如何にも大量なのである。大衆の上に立って或いは下になって本当の佛の機(はたらき)をするには、どうしても「無心」のところから出て来なければならないのである。 今月は此処までにします。 合 掌 |