茶話団欒(五十四)
 
 
 鈴木大拙さんの「無心ということ」の続きであります。先月は「内面から直接出てきた言葉」というお話でした。今月は「夢幻か実在か」というお話しであります。

 佛教はシナに入ってシナ人心理の特色が加わって益々進んで來たのである。何だか寝言の様なことを云っていると思うであろうが実際寝言らしいのである。現に我々は食べなければ生きてゆけないし抓(つね)ったら痛いというような生々しい現実の世界の外に、寝言らしい世界に居るということを考えると実際寝言のようなのである。「無住」とか「無功徳」とか云うが其れは脚の無い幽霊の世界であり荒唐無稽であるとさえ考えられるのである。

 ところが其の荒唐無稽な世界を昔から今日に至るまで云い続けているのである。更に荒唐無稽な世界を除いてしまうと誠に淋しいので妙なのである。淋しくもない妙でもない何とも思わないという人がおれば話しはそれで終わりになるのである。自分としてはそういう世界があると確信しているのであり目に見るような気がするのである。

 極楽が西方にあるとか死んでから極楽に行くとか、死んだら神様が救けてくれるとか、昔も今も云うところであり或いは未来でも云うであろうと思うのである。表現の方法は色々あるが、どうもそういうものがあるので其れを見なければならないのである。その世界の実在は否定する訳にはゆかないのである。

 その世界はどんな世界か? 対立の世界を離れていると云う訳にもゆかないのであり、対立の世界の上とか下とか中とか前後左右にあるとも云われないのである。

 又、対立の世界は夢の様な世界・幻の様な世界であると云う宗教家がいるが、そんな世界かと云うとそうでもないのである。それなら、此の対立の世界が直ちに実在の世界で此の外に何もないかというと、そうも云われないのである。是れが余程難しいのである。それで言葉が旨くゆかないが、こういうことに云ったらどうかと思うのである。

 甲と乙とが対立しているということにしてみるのである。その中の甲を「自」の世界とすれば、乙は「他」と云ってもいいが「非自」の世界と云うことにすれば、自と非自とが対立している世界の上に別に無限の世界があるのでもなく、その下にあるのでもない。是れを包んでいるのでもないし、その中を突き通っている世界でもない。又、自と非自とが一つになった同じ世界であると云っても、此等は一神論的な考え方であり急所・肝要を突いているとは言い難いのである。一神論的に考えると対立の世界の外の世界があるように考えられて更に煩わしくなるのである。

 佛教は往々汎神論的に受け取られるが汎神論は死んだ世界である。宗教は生きている世界である。包んでいるというような空間的なものばかりを見てはいけないのである。

 「獨坐大雄峯」、これ程奇特な大事実はないのである。和尚さん仲間では此の間の消息が相通ずるのである。

 今月は此処までにします。  
                              合 掌