茶話団欒(五十二)
 
 
 鈴木大拙さんの「無心ということ」の続きであります。先月は「達磨の無心論」でした。今月は「心木石の如し」というお話であります。
 
 禅宗の人がヨク「心木石の如し」と云う。「石頭の如し」とも云う。これは以前にも云ったかと思うが「自分にものを持たぬ」ということである。つまり道元禅師の「身心脱落」ということである。

 それなら全く無知の世界かというと「如し」に意味を付けたいのである。「心は木石に似たようなものだ」、つまり「我を立てない」ということである。政治的な主張とか哲学的な主張とかという「主張」があるが「空の世界・身心脱落の世界」では何らの「主張を持たない世界」がある。その世界を指して「木石とか石頭とか云う」のである。

 嵐が吹くと樹が倒れるし家が壊れる。しかし嵐は、この樹を倒してやろう、この家を壊してやろうと思って吹くのではない。「嵐は吹くから吹いた」のである。壊れた物は「壊れたから壊れた」のである。気の毒ではあるが「死んだ者は死んだ」のである。そこに何等自分の塩梅(あんばい)が入っていない。嵐に殺意は無いのである。

 嵐が吹くとか地震が起こるとかで私なら私が此処で死んでしまえば、「死んでしまえば死んだ」のである。それだけであってそれ以上にもそれ以下にも何も無いのである。そうすると窮めて非常識で非人情なことだと考えられよう。なるほどそういうところがある。しかし自分は人情を無くしてしまったかというとそうではない。人情がある處に即して非人情の世界・人情で動かない世界がある。そこを見なければ般若の「心非心も無所得も身心脱落」も解らないのである。

 昔中国に徳山という坊さんがいた。「道(い)い得るも三十棒道(い)い得ざるも三十棒」と誰でもブン殴るので有名な人である。 その人に「心に無事にして事に無心なれ」という言葉がある。「心に事なかれ事に心なかれ」という程の意味である。「心に事なかれ」とボンヤリしてただ木石の様なものかというと、手を動かし足を動かすのである。挨拶もする食事もするのである。こういう挨拶・食事に於いて心に何の計らいもないのが「無心であれ」ということである。

 「應(まさ)に住する處無くして而も其の心を生ず」というのも此の義にとってよい。是れは少々理屈っぽい論理めいたインド流の云い方であるが、是れを具体的な中国流に云うと道元禅師の「身心脱落」であり、徳山の「心に無事にして事に無心なれ」という言葉になる。

 理屈っぽい論理めいたインド流の「心無心」よりも達磨の「無心」の方が我々には親しいのである。徳山の「心に無事にして事に無心なれ」という言葉になると、達磨の「無心」よりも更に精彩を付けて「實生涯を切実な言葉で現している」のではないかと思うのである。進んだ云い方と云ってはイカンかもしれないが、日本人に近い云い現し方である。

 今月は此処までにします。  
                              合 掌