茶話団欒(五十一)
 
 
 鈴木大拙さんの難しい「無心ということ」の続きを拝読いたします。先月は「無住」というお話でした。今月は大英博物館所蔵の原写本から和訳して下すった達磨の「無心論」であります。尚、分かり易く簡明にしておきました。

 弟子和尚に問う「有心か無心か」。答えて曰く「無心」。問う「無心ならば誰が見聞覺知し、誰が無心を知るか」。答曰「無心である故見聞覺知し、無心が無心を知るのである」。問曰「無心であれば見聞覺知は無い筈だ。何で見聞覺知があるのか」。答曰「我無心なれども、見、聞き、覺し、知る」。問曰「見聞覺知は有心ではないか。何故無と称するか」。答曰「見聞覺知がそのまま無心である。見聞覺知という行為の他に何處に別に無心があるというのか。吾等は終日見ているが而も別に見るということが無いのである。それ故に見は無心である。聞の場合も終日聞いているが而も別に聞くということが無いのである。それ故に聞は無心である。覺も終日覺であるが而も別に覺ということが無いのである。それ故に覺も亦無心である。知も終日知であるが而も別に知ということが無いが故に知も亦無心である。それ故、見聞覺知と云うは総て是れ無心と云うものである。

 問曰「どうして無心ということが解るのか」。答曰「心にどんな相(すがた)があるか。是れといって把握すべきものか。是れといって心なるものが無いではないか。どこを捜しても、一切處に覓めることにしても、心は不可得である。それで無心ということが解る」。問曰「一切處に於いて総て無心なれば罪も福も無い訳になる。何故衆生は六趣に輪廻して生死不斷なのか」。答曰「衆生は迷妄の故に無心の中において、妄りに心を生じて種々の業を造り、妄りに執着して有心となす故、六趣に輪廻せられて生死不斷を致すのである。縄を見て蛇と思うが如きで、衆生の妄執もその通りである」。問曰「一切處において六根の働くところを審察すれば、何かの応答があり、煩脳あり菩提あり生死あり涅槃ありとなるが、是れは無心と云う可きか」。答曰「皆是れ無心である。只だ衆生が妄りに有心と執着するから煩脳とか菩提とか生死とか涅槃等というものが出来る。若し無心と覺るときは、一切の煩脳・菩提・生死・涅槃等というものが無くなる。若し、心として別に得るべきものがなければ、煩脳も菩提も生死も涅槃も亦不可得である」。問曰「菩提も涅槃も不可得ならば、過去の諸佛皆菩提を得たというのはそれでよいのか」。答曰「それは皆世俗的立場で云うのである。現実に於ける実際の處では、何等可得ではないのである。諸佛如来は不可得を以て得とするのである」。問曰「一切處に於いて総て無心なれば、木石も亦無心であり吾等も木石に同じか」。答曰「木石と同じには見られない。吾等が無心は種々の妙法を出し種々に変現して衆生を教化するのである。正に佛の如くであり、つまり『無心』というは『眞心』ということである。妄想の心無しの義である」。問曰「しからばどんな修行をすればよいか」。答曰「一切の事上で無心を覺了すればよい。即ち是れ修行である。更に別に修行は無い」。

 今月は此処までにします。  
                              合 掌