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茶話団欒(四十九)
鈴木大拙さんの「無心ということ」の続きであります。先月は道元禅師が宗教的体験をして「身心脱落、脱落身心」したら「柔軟心があった」というお話でした。今月は「心無心(しんむしん)・心非心(しんひしん)」というお話しであります。
般若經では「心無心(しんむしん)・心非心(しんひしん)即ち是心なり」と云う。宗教的体験が論理の様な形式で表現されている。金剛般若經から引用すると、如来説く「凡夫者(とは)則ち凡夫に非ず、是を凡夫と名ずく」と。こんな塩梅に般若は否定を連発している。「そうでないから、そうだ」と云うのである。「馬鹿だから利口だ・貧乏だから金持ちだ」という調子で順逆転倒の世界があるのかと思われる程である。 吾等はズッとズッと生きて行くものなので、今までのもので決めつけられて、チャンと機械的に組み上げられて動かんようにせられてはならんのである。動いて行けば新しいものが出来てくる。新しいものを云い現そうとする時に、いつも新しい言葉を持ってくることは出来ない。止むをえず昔のままの言葉を使う。 それで吾等も心というような字を昔から使ってきた。その意味も随分限定していたようであるが、どうも昔のままでは話しが出来ないことがある。心と身とを二つに分けて話しをすると、分かれているものと定めてしまうようになる。是が一番困るのである。 実際のところでは、いくら研究を進めても身というものがあるのか、心というものがあるのか、その本当のところが解決がつかないのである。それで普通は何となく身心を二つに見るのである。身と心を二つに分けておいて、これが心これが身という塩梅に考えておいて、その身その心が一つにならなければならないことになっているのである。其処に於いて「身心脱落」という経験があるというのである。それで「心、心に非ず」と云うのである。「心、心に非ずだから心である」ということになるのである。 二つに見ておいて、而して是を否定してゆかねばならないから、「心、心に非ず」とか「非心の心」とかいうことになるのである。「そこに心がある、それが心でない、それだから心である」ということなのである。「般若は般若でないから般若である」ということなのである。 いくら説教しても、四十九年説教したけれども「一字不説」であったというような、矛盾を極めたことを大胆に肯定して而して「それが間違いない」というのである。 「肯定して否定してまた肯定する」、そういうことを佛教者は昔からやってきた訳である。般若は初めから終わりまでこれで徹底しているのである。その爲に、同じ言葉が前と後とで矛盾しているようになるのである。その中に「無住」というようなことを云うのである。住むところがないのである。これは般若特有の言葉であるが、こういう「無住」というような言葉は余程洗練された意味を持っているのである。 「無住」については来月拝読致します。 合 掌 |