茶話団欒(四十六)
 
 
 鈴木大拙さんの「無心ということ」の続きであります。先月は、吾等が本源に帰る時に自ずから出てくる機(はたらき)がある人になった時「無心という境地」が展開するというお話でした。

 宗教学者は分別の世界には真理、倫理の世界には善、芸術の世界には美がある。宗教の世界には聖があるという。

 しかし哲学者が出てくると是れを打ち消してしまう。故に様々な面倒が出てきてなかなか収まりがつかない。相対の世界に滞っているからそう言うことになるのである。本当の宗教的体験からすると聖というものはないのである。その実は真理も善も美も聖もないのである。

 吾等は水が飲みたければ飲むだけである。ただ無分別の世界・無価値の世界・無心の世界に驀直(まくじき)に飛び込みたいだけである。色々の話しは飛び込んでからの話しである。

 滞らない處へ飛び込むと無限の創造が可能な世界に入ることが出来る。この頃は山を毀(こわ)したり海を埋めたり地下で爆弾を爆発させたり悪戯(いたずら)の度合いが次第に高じてきたが、大地や大海は知らん顔をしているし、もし都合が悪ければ其れをひっくり返して平気の兵左右衛門である。

 そういう大地の様な心持ちが吾等の中にあると其処から宗教の芽が育ってくる。雲無心にして岫(しゅう)を出で、鳥飛ぶに倦(う)んで還ることを知ると同じで、吾等が今こうやっている世界の基準で測られない處へ飛び越えるということがなければならない。

 吾等が今こうやっている世界と飛び越えた世界との間には一つの区切れた處がある。物理の言葉で云えば不連続な處を飛び越えるのである。宗教者の体験ではそうなるのであって、飛躍とか横超とか云わなくてはならないのである。

 これを心理的に話すと、対立の世界を非常な束縛だと感ずることがなければいけない。浄土門では罪業ということを強く感じさせるように仕組んである。この束縛だとか罪業だとかいう苦しみの揚げ句に「雲萬重の關門を叩く」とそれが不思議に開くのである。我が全体を尽くして叩きのめす時に、自分の存在そのものを越えた時に、その門が一時に開かれて從來居た世界は大いにその意義を異にすることに気が付くのである。立っても寝てもいられないという本当の苦しみを痛切に感じだすと、その極に思わぬ力が出て飛べないと考えていた處が飛べるのである。

 対立の世界に居る限りは、真理だ善だ美だ聖だというような我楽苦多(がらくた)が仰山ある。色々な物を次から次へ積み上げ重ね上げた世界では動きが取れない。自分等が一心に造り上げたと考える世界を「一瞬時に叩きつぶして」しまわなければならない。「一拳に拳倒す黄鶴楼(こうかくろう)、一 (いってき)に 翻(てきほん)す鸚鵡洲(おうむじゅう)」を体験しなくてはならぬ。一つずつ崩すというようなことではない。積み上げた概念を根元から轉覆させなくてはならない。容易ならぬ苦労だがやって仕舞えばあとは大安楽である。この大安楽境を「無心の境地」と呼びたいのである。

 苦しみも感ぜず悩みもしないで、寝たり起きたり働いたり遊んだりして生涯を終える人の人生は夢の様なものである。

 今月は此処までにします。  
                              合 掌