茶話団欒(四十五)
 
 
 鈴木大拙さんの「無心ということ」の続きであります。先月は「我々は対立の世界にいるから苦痛がある。苦痛から出たいと願うならば、捨てなければならない」というお話でありました。今月は「無心の世界に入る」のであります。

 捨てるということはあらゆる値打ちから離れる行為である。値打ちとは、善悪・貴賤とかいう「二元対立の世界」に有るのである。この中にいる限り「自由」が無いのである。

 苦痛から出ることを「解脱」と云うが、単に出るだけではなくて「自主・自由」という機(はたらき)が出てこなければならない。機(はたらき)が無い人は死人である。「自由を得て・機(はたらき)がある人」になった時「無分別の世界に入った」というのである。

 是れは自分で創めて造ってゆく世界である。「遊戯三昧(ゆげざんまい)の生活」であり「自主者の生活形態」である。自由とは只だ乱暴してゆく世界ではない。乱暴は自主的でないのである。自由とは人間としての吾等がその本源に帰る時自ずから出てくるところのものである。

 こういう「自由が出る人」になるためには、總てのものを払いのけ「二元対立の世界」の世界から抜け出してしまはないと手に入れることは不可能である。

 昔、道元禅師がシナから帰られた時に「自分は柔軟心を得た」と云われたが、この柔らかいということは所謂「受動性」の型であり宗教の極地である。柔らかでなければ物を入れようとしても入らぬ。何か固い物があると「われが」と云って頑張る。そんなに頑張ってしまうと内外から来る物に対してすぐ反発してしまう。柔軟なものになると入った物をスッと包んでしまう。こっちに何か一物があると是れが出しゃばりたがって困る。

 自分が無くならなければいけないが、是れは「二元対立の世界」を越えてしまうのである。越えると云っても「二元対立の世界」をそのままにしておいて、而して一つのようになる「円融自在の世界」である。難しく云うと「事事無礙の世界」であり、柔軟心の世界であり、この世界が宗教の極地である「受動性の原(もと)」である。

 だから宗教を体験するには、有無の世界に捉(とら)えられないようにしないといけない。有無を超越せよと云いたいのであるが、是れは哲学者の言葉であり宗教を体験の上から見る人はそうは云わないのである。有が即ち無であり、無が即ち有であると云うのである。有から無に移り無から有に移り有無が一緒になったりしていると、日が足らなくなって何かを出来させる暇が無くなるのである。

 それよりも何でもよいから皆一つにグッと握ってしまうのである。こう握りしめてしまえば、其処から有でも無でも何でも出てくるのである。何でも発見せられるのである。木や石と同じ様に「どっちに転んでもいいという世界」が出てくるのである。絶対無価値と云うか、そうした世界が開けて来るのである。其処に「無心」と名付けられるべき境地が展開して来るのである。

 今月は此処までにします。  
                              合 掌