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今月の法話: 六祖壇経 |
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善知識よ、我が此の法門は、従上(じゆうじよう)已来(いらい)、先ず無念(むねん)を立てて宗(しゆう)とし、無相(むそう)を体(たい)と為(な)し、無住(むじゆう)を本(ほん)と為(な)す。無相(むそう)とは、相に於て相を離る。無念(むねん)とは、念に於て念ぜず。無住(むじゆう)は、人の本性なれば世間の善惡(ぜんあく)好醜(こうしゆう)、乃至(ないし)冤(おん)と親(しん)と言語(ごんご)触刺(しよくし)欺争(ぎそう)の時に於て、並(とも)に将(まさ)に空と為(な)して酬害(しゆうがい)を思わず、念(ねん)念(ねん)の中に前境(ぜんきよう)を思わざるなり。若(も)し前念(ぜんねん)と今念(こんねん)と後念(ごねん)と、念(ねん)念(ねん)に相続して断ぜずんば名ずけて繋縛(けばく)と為(な)す。諸法の上に於て、念(ねん)念(ねん)住せずんば即ち無縛(むばく)なり。此れは是れ無住(むじゆう)を以て本(ほん)と為(な)すなり。善知識よ、外に一切の相を離るるを名ずけて無相(むそう)と為(な)す。能(よ)く相を離るれば、即ち法体(ほうたい)は清浄なり。此れは是れ無相(むそう)を以て体(たい)と為(な)すなり。善知識よ、諸境(しよきよう)の上に於て、心の染まざるを無念(むねん)と曰(い)う。自らの念上(ねんじよう)に於て、常に諸境(しよきよう)を離れ境上(きようじよう)に於て心を生ぜず。若(も)し百物思わず念尽(ことごと)く除去せば、一念絶ゆれば即ち死して別処に生を受けん。学道の者よ、之を思え法意(ほうい)を識(し)らざること莫(なか)れ。自ら錯(あやま)るは猶(な)を可なるも、更に他人に勧(すす)め自ら迷うて見ず、又佛経(ぶつきよう)を謗(そし)る。所以(ゆえ)に無念(むねん)を立てて宗(しゆう)と為(な)すなり。善知識よ、如何(いかん)が無念(むねん)を立てて宗(しゆう)と為(な)すや。只だ口に見性を説くも迷人は境上(きようじよう)に念有り、念上(ねんじよう)に便(すなわ)ち邪見(じやけん)を起こすに縁(よ)り、一切の塵労(じんろう)妄想(もうそう)は此れより生ずればなり。自性は本(もと)一法の得べきもの無し。若(も)し得る所有りて妄(みだ)りに禍福(かふく)を説かば即ち是れ塵労(じんろう)邪見(じやけん)なり。故に此の法門は無念(むねん)を立てて宗(しゆう)と為(な)すなり。善知識よ、無は何事が無く念とは何物を念ずるや。無とは二相(にそう)無く諸々の塵労(じんろう)の心無きなり。念とは、真如(しんによ)の本性(ほんしよう)を念ずるなり。真如(しんによ)は是れ念の体、念は是れ真如(しんによ)の用なり。真如(しんによ)の自性が念を起こす、眼耳鼻舌(げんにびぜつ)が能(よ)く念ずるに非ず。真如(しんによ)は性有り、所以(ゆえ)に念を起こす。真如(しんによ)若(も)し無ければ、眼耳(げんに)色声(しきしよう)は当時に即ち壊(え)せん。善知識よ、真如(しんによ)の自性が念を起こせば、六根(ろつこん)は見聞覚知(けんもんかくち)有りと雖(いえど)も万境(ばんきよう)に染まずして、而(しか)も真性(しんしよう)は常に自在にて、外は能(よ)く諸々の色相(しきそう)を分別し、内は第一義に於て不動なり。
□ 法門=佛の教法は八万四千の法の集まりであるといわれるように種々の方面にわたっている。聖智に達し信心に通入する門であり、生死を脱して涅槃に入らしめる門であるから、これを法門という。宗門又佛法の意味にも用いられる。
□ 無念(むねん)=思慮分別を超えた状態。正念(しようねん)。⇔有念(うねん)。
□ 有念(うねん)=思慮分別する心がはたらくこと⇔無念(むねん)
□ 正念(しようねん)=八正道(はつしようどう)の第七
□ 正(しよう)=まさしく・端的・そのものズバリ
□ 端的=端倪(たんげい)的然(てきぜん)。まさにそのもの。そのまま
端倪(たんげい)的然(てきぜん)=何物にも汚されていない初めのままで、幼子(おさなご)がものを見るように明かな樣子
□ 八正道(はつしようどう)=正見(しようけん)・正思(しようし)・正語(しようご)・生業(しようごう)・正命(しようみよう)・正精進(しようしようじん)・正念(しようねん)・正定(しようじよう)
□ 無相(むそう)=菩薩の最高の境地である空・無相・無願の一つ。対境に対する想念がなくなった境界(きようがい)。春になれば氷が溶けるように、全ての事象はそれを生ぜしめた条件が変われば変化生滅する幻の如きものであると知って、ものの相(すがた)を認識しながらそれに囚われないこと。毘廬遮那佛(びるしやなぶつ)=Vairocana(=輝くもの)の音写。遍一切處・光明遍照などと漢訳する。元(もと)は インドで大陽を云う
□ 無住(むじゆう)=固定した実体のないこと。対境に執着して自由無礙な働きを失わないこと。滯(とどこお)ることのない境界(きようがい)。応無所住而生其心(おうむしよじゆうにしようごしん)する応無所住而生其心(おうむしよじゆうにしようごしん)=応(まさ)に住する所無うして而(しか)も其の心を生ず=何物にも執着せずに心を働かせよの意:金剛経。あまりにも理屈っぽいので「応無所住而生其心(おうむしよじゆうにしようごしん)が大麦(おおむぎ)小麦(こおむぎ)二升(にいしよう)五合(ごんごう)」と云えるようになるまで修行する。
□ 法門=佛の教えに達し信心に通入する門。生死を脱し涅槃に入らしめる門。開悟に到る門
□ 従上(じゆうじよう)=祖師方に付き従う
□ 宗(しゆう)=頭。おおもと。主。本家。根本真理の意。禅門の意。
□ 体(たい)=身体。本体。実体。主体。そのもの自体
□ 本(ほん)=根っこ
□ 念(ねん)=自己。記憶して忘れない心のはたらき
□ 別処=特別の地獄
□ 見性(けんしよう)=自己の本性を徹見すること
□ 塵労(じんろう)=煩悩
□ 妄想(もうそう)=虚妄の想念
□ 自性(じしよう)=自己。心やものの固有な本性。改変出来ない本質
□ 邪見(じやけん)=道理に背いて因果を無視した説
□ 因果=原因と結果。今人間に生まれているのは、必ずその原因がある。「若(も)し人身(にんしん)を失すればまた何(いず)れの道に落ちんということを知らず(宗祖隠元禅師御遺誡)」何(いず)れの道=地獄・餓鬼・動物・阿修羅・人間・天上(ホロホロと鳴く山鳥の声聞かば父かとぞ思う母かとぞ思う)
□ 二相(にそう)=自己と対境との対立
□ 真如(しんによ)=万有に遍在する根源的な実相。ありのまま
□ 本性(ほんしよう)=人間に本来具わっている真実性
□ 性=?(りっしんべん)が生まれると書く。?(りつしんべん)=心のこと
□ 心の正体=正体(えたい)の知れないもの(心とは如何なるものを云うやらん墨絵に描きし松風の音)
□ 六根(ろつこん)=眼・耳・鼻・舌・身(からだ)・意(こころ)という対境を認識する感覚器官
□ 六境(ろつきよう)=色(=物質・肉体)・声(=語言・音)・香(かおり)・味(あじ)・触(=触れて感覚する対境)・法 (=色・声・香(かおり)・味(あじ)・触以外の全て)という感覚の対境
□ 万境(ばんきよう)=全ての対境
□ 真性(しんしよう)=本性(ほんしよう)
□ 第一義=言葉で表現出来ず、考えて概念化出来ない真実
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| 意 訳 |
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各々方よ、私が説くこの法門は佛・列祖以来、先ず無念(むねん)を頭(あたま)とし、無相(むそう)を身体とし、無住(むじゆう)を根っことするのである。無相(むそう)とは、対境の相(すがた)・樣子を見ても、それに囚われて束縛されないことである。無念(むねん)とは、色々なものを記憶しても、その記憶に囚われて束縛されないことである。無住(むじゆう)は人の本性(ほんしよう)故、世間の善惡(ぜんあく)美醜(びしゆう)、怨(うらみ)と親しみ、刺(とげ)のある言葉や詐欺(さぎ)の応酬がある時、其れ等は実体のないものなので、仇(あだ)で返そうと思わずに、一念一念の中に過去の念を思い出さないことである。若(も)し、過去の念と今の念と未來の念とが連続して断ち切れないならば繋縛(けばく)と名ずけるのである。あらゆる対境に対して一念一念が執着しなければ無縛(むばく)である。此れを無住(むじゆう)を根本とするというのである。各々方よ、無相(むそう)とは、対境の相(すがた)・樣子を見ても、それに囚われて束縛されないことである。対境の一切の相(すがた)・樣子に囚われて束縛されないことを無相(むそう)と名ずけるのである。対境の相(すがた)・樣子に囚われなければ、千変万化する対境の実体は清浄(しようじよう)法身(ほつしん)毘廬遮那佛(びるしやなぶつ)である。これが無相(むそう)を身体とするというのである。各々方よ、あらゆる対境に対して、その対境の影響で念を起こさないのを無念(むねん)と云うのである。心のはたらきに於て、常に対境の影響を離れて、あらゆる対境の影響や、数々の記憶や其れ等の合成や組み合わせで心をコロコロと変化させないのである。こうゆう具合に無念(むねん)とは常に対境の影響を離れることであり「何も思はないことではない」のである。若(も)し何も思はず心のはたらきを全て除去してしまえば、そういう人の最期の一念が絶えた時には、死んでしまって特別な地獄に堕ちるであろう。学道の者よ、此処をシッカリ頭に叩き込め、佛法の意とするところを錯(あやま)って会得してはいけないのである。自分が錯(あやま)るのは仕方がないとしても、錯(あやま)りを他人に勧(すす)めて自分で迷って佛意を見ないのは佛の説かれた教典を謗(そし)ることになるのだ。だから無念(むねん)を立てて頭(あたま)とするのである。各々方よ、何故無念(むねん)を立てて頭(あたま)とするのか? 口で見性(けんしよう)を説いても、迷った人は対境の影響で念が起こり、その念が邪見(じやけん)を起こすことが原因で一切の煩悩・虚妄の想念が生ずるのである。自性(じしよう)は、是れが自性(じしよう)であると認め得るものは本来無いのである。若(も)し「徹底己が空しいのが自性(じしよう)である」等と自性(じしよう)を認めて、其れを根拠にして禍(わざわい)や幸せを説法すれば、煩悩や道理に背いて因果を無視した説を説法しているのである。故に、私が説くこの法門は無念(むねん)を立てて頭(あたま)としているのである。各々方よ、無とは何が無いのか? 念とは何を念ずるのか? 無とは、自己と対境との対立が無く諸々の煩悩が無いことである。念とは、ありのままの対境に成りきって「花を見る者(は)誰(た)そ」と、対境に因(よ)って自己を証するのである。是(かく)の如くに、ありのままの対境は自己の身体であり、自己とはありのままの対境の用(はたらき)である。ありのままの対境に因(よ)って自己を証して、此処に、真如(しんによ)という自己が念を起こすのであり、眼・耳・鼻・舌・身(からだ)・意(こころ)(=六根(ろつこん))という感覚器官が念ずるのではないのである。真如(しんによ)という自己には心を生ずる能力が有り、だから念を起こすのである。若(も)し真如(しんによ)という自己が無ければ、眼・耳・鼻・舌・身(からだ)・意(こころ)という感覚器官も色・声・香・味・触・法という対境も忽(たちま)ち壊れてしまうのである。各々方よ、真如(しんによ)という自己が念を起こせば、六根(ろつこん)に見聞覚知(けんもんかくち)が有っても全ての対境に染まらず、而(しか)も人間に本来具わっている真実性が常に自在に働いて、あらゆる対境に向っては諸々の物やその樣子をハッキリと分別して、自己の胸中に於ては真実性そのままに不動なのである。
□ 八正道(はつしようどう)=正見(しようけん)・正思(しようし)・正語(しようご)・生業(しようごう)・正命(しようみよう)・正精進(しようしようじん)・正念(しようねん)・正定(しようじよう)
□ 正見(しようけん)=そのものをズバリと見る。正しく自性を見る
□ 正思(しようし)=正思惟。煩悩?菩提と生きる人の一切の思惟。僧侶の思惟・工夫
□ 正語(しようご)=正思(しようし)から発する語言
□ 生業(しようごう)=正思(しようし)して行う行為。僧侶の行為。業(ごう)=作業・行為
□ 正命(しようみよう)=嫡嫡(てきてき)相承(そうじよう)された永遠の壽(いのち)
□ 正精進(しようしようじん)=精進そのもの。徹底した修行。菜食
□ 正念(しようねん)=対象に対して無念(むねん)である状態
□ 正定(しようじよう)=涅槃(ねはん)決定(けつじよう)という境界(きようがい)(=心の状態)
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