釈尊菩提樹下正覚の後四十九年の衆生化導の生涯を「華厳・阿含・方等・般若・法華涅槃」の五時に分類した天台智大師の教相判釈を簡単に御紹介致します。
教相判釈=教典を形式・内容の面から釈尊一代の説法と位置ずけた教義的解釈。
教義=教えと、教えによって説かれる事柄。 |
【第一:華厳時】
釈尊は正覚直後に菩提樹下に於いて三七二十一日間「お悟りの内容は果たして直指し得るや」と思念の後「華厳經」を説かれたのであります。即ち「華厳經」は「釈尊お悟りの内容そのもの」なのであります。釈尊は「お悟りの内容」を、そのままズバリと、頓に(いきなり)説法されたので牛乳に喩えて云えば、絞り立ての「乳味」と云われ、恰も日出れば先ず高山の頂を照らすが如く、初入の徒には正に甚深微妙・孤危峻厳な説法だったのであります。故に「華厳の世界は入り難く解し難し」で、所謂「擬宜物」と申しまして、真実の世界は果たして直指し得るや否やという「試みに説かれた説法」だったのであります。一種の「帰納法」でありまして先ず結論を示して、以下漸次説明して再び結論に帰結するのであります。 |
【第二:阿含時】
そこで釈尊はベナレスの郊外「鹿野苑」に赴いて、十二年間に亘って先ずは易しく「阿含經」を説かれたのであります。読んでみると能く分かるのでありまして、人々が先ず「人間」の世界に目覚めるための經典であると云われるのであります。「お悟りを開いて頓に(いきなり)成佛する」これが佛道でありますが、先ずは「人間」に徹底させて(誘って)、然る後に段階的に高次の立場に導く所謂「漸教」であり、云うなれば橋渡しの經典であります。牛乳で云えば「酪味」に喩えられ、薄暗い幽谷に住む人々に日の光りを照らして差し上げる經典と云われているのであります。 |
【第三:方等時】
その後更に八年間、愈々大乗に導いて下さるのであります。「維摩經」「楞伽經」「勝鬘經」等で代表される一般大乗經典でありまして、大乗の通説即ち「通教」を説かれたのであります。牛乳で云えば発酵がやや進んだ「生酥味」に喩えられ、燦々と輝く朝日が森羅萬象を照らすが如く、暗闇が払拭されて大乗の端緒が明らかになる經典であります。一切衆生は、何時如何なる状況に於いても平等に佛に護念されていることを説くのでありまして、有り難く浄土門的に説法すれば、これぞ生死の出離と聴衆は涙して法悦に浸る經典群でありますが、実際は大乗の教えを受け入れない修行者を強く叩き叱りつける(彈呵する)厳しい内容でありまして、特に「維摩經」は痛快であります。釈尊の彈呵を正受するか否かが大切で、ここで正受した者が次の般若時で更に淘汰されるのであります。 |
【第四:般若時】
次いで大乗の神髄たる「般若皆空」を示すべく更に二十二年間、「大般若經典」を説かれたのであります。般若に於いては、「生死を選ぶことが即ち生死の出離」であり、「戒律を破ってこそ真実の戒律が生きて働く」のであり、「涅槃に入らないことが即ち真実の涅槃」なのであります。これは一種の「逆化」の手段による「宗乗の高尚」でありまして、大乗佛教に通じていない人には解らない大乗特有の教えで「別教」と云うのであります。般若の智慧によって一切の既成概念は完全に打破されるのでありまして、身勝手な結果だけを期待する大衆の御都合主義はキレイに否定されて、要は本物と偽物を選り分ける(淘汰する)、正に「寰海に端居して龍蛇を定める」のであります。ここを透過した者が「生死という大舞台で涅槃という真実の自己を大活躍」させるのであります。
宗乗=本家(=宗)へ載せて運ぶ(=乗)という意味であります。
全ての佛教を宗乗と余乗に分けて禅宗を宗乗とし、その他の宗派を余乗と称した(雲門廣録)のであります。禅宗には教義が無いからであります。
後に転じて各宗の教義を云うようになったのであります。宗は「尊」と註し、乗は「運載を義と為す」と註すのであり、もし人「七宝荘厳の駟馬宝車に乗 ずれば長途に労倦せず、その如く三世諸佛歴代の祖師皆この正宗に乗ずる故 一超直入如来地なり(普儀聞解)」と説かれるのであります。
宗 = もとずく処。宗からは全てが流れ出る。宗には一点の瑕翳もなく教義もなく制約があってはならない=人々本具の鼻孔=本分=人に於いて実践した時に 宗乗は成立する。
鼻孔 = 鼻の孔=顔の中心にありながら、自分では見えないので本分に喩える。
本分 = 自己本来の身分=永遠不滅の自己=永遠の壽=本当の私
尚、律宗にも教義が無く禅宗の友達であります。禅宗・律宗以外の各宗派には全て教義が有り、是れを「教家」と呼ぶのであります。
|
【第五:法華涅槃時】
最後の八年間に真実の大乗たる「妙法蓮華經」や「涅槃經」を説かれたのであります。「涅槃經」は釈尊が入滅に際して一日一夜の説法をされたものであり、これらの經典は最初に説かれた「華厳經」と同じくレベルの高い圓満完全な經典(圓教)なのであります。大乗とは衆生を乗せてお悟りに赴かせる唯一無二の大きな乗り物と云う意味でありまして、その特長は自らが救われること(自利)よりも、広く衆生を救済する(利他)ために、菩薩というリ−ダ−が大活躍するのであります。菩薩というリ−ダ−は衆生済度に徹底し、衆生は衆生でリ−ダ−が運転する大乗という乗り物に無条件に乗るのであります。これにより如何なる衆生も一様に成佛出来る、これを「一乗」と云って釈尊の説かれた諸々の教えは全て此処に帰す唯一真実の究極の真理であるとするのであります。牛乳で云えば円熟した醍醐味に喩えられ、丁度真昼の太陽が高山・幽谷の別なく隅々まで照らすように、最後に最高・究極の教えを付与するものであります。釈尊五時の説法は全て衆生をしてこの法華の「一乗」の真理に導く為の物であるという天台智大師による教相判釈であります。 |
釈尊五時の説法はその数五四〇〇巻余と云われており、小さい字で印刷した大正大藏經でも一列に並べれば十メ−タ−以上にはなろうかという一大藏經典であります。是れを華厳時で直指し、阿含時で誘って、方等時で彈呵して、般若時で淘汰して、要は不良品は全て除いて、このベルトコンベア−に最後まで留まった者は一様に法華涅槃の「一乗」の真理に到達出来るという天台智大師の大変な教相判釈であります。
|
淨住寺開山「鉄牛禅師一代の足跡」生 誕
【寛永五年七月二十六日:1628】 山口県須佐で生誕、幼名:波田才之進。
父:角左右衛門尉兼尚(三十八歳)
母:永富主税久斎の女(二十九歳) 次男坊
弟:雲嶺元心(黄檗僧となる)
異母弟:穆雲元輝(黄檗僧となる)
遠祖:藤原鎌足。
幼少時代
【四 歳】 熱病を患う。飲食断つこと三昼夜。
【七 歳】 回禄の災(火災)に遭う。再び疫疾に罹り死にいたらんとする。
【十 歳】 従兄よく群童と争い屈辱を受ける
↓
助けて相手を打撃し殆ど死に至らしむ。
【十 一 歳】 伯父に伴われて、鳥取城下の広徳山「龍峰寺」の提宗慧善和尚に投じる。
和尚、聡敏なるを見て法器(仏法を受けるに堪える能力の人。禅では[正法眼蔵涅槃妙心]を付嘱するに足る人物)となして奨励す。
一座を圧する 禅要を示されるに個事(斯くの如くの事)あるを知り、真正の僧ならんこ とを誓う。経典の読誦を聞いては暗誦し、勇悍(勇ましく強い)気概変わらず往 々常軌を逸っして叱呵(叱られる)するところとなるも、稜々(角だって勢いのあ る様)の風ありて一座を圧するという。
【十 三 歳】 詩を作り講説をなす。十四歳では、題詠・聯句の席に列す。
年少を以て軽辱され相手を斬る、死に至ったものと思い自殺せんとするも、臼井久清なる人(和尚の族兄)刀を奪う。和尚は僧となることを懸念するも臼井久清「悟道せば将来料るべからず」と諭す。
看経礼仏の願文 「看経礼仏の願文」を記し、生涯にわたり念誦する。
成年時代
【十 五 歳】 提宗和尚に薙染(剃髪染衣)を求め、名を「慧覚」という。
【十 七 歳】 勤めて苦行を行い暁夕怠らず。俄に眼病を患い殆ど失明に至る。
【十 九 歳】 俗兄の伴い来った医師の投薬により全癒。
美作に遊方、「龍雲寺」の冬安居に参堂「無字」の公案を拈提するも工夫すること能わず。
【二 十 歳】 母病床にありて七月帰省する。八月十日、母没す(四十八歳)
【二十一歳】 大阪の「大仙寺」、洛西の「妙心寺」で「楞伽経」を聴講。
【二十二歳】 講肆に遊び、潜かに内外の諸典を講究する。
【二十三歳】 大阪の「大仙寺」で「六門集」を聴講。住吉の「慈恩寺」に寓す。即興詩を諸弟に示す。
【二十四歳】 大阪の「大仙寺」で「碧巌集」の評唱に赴く。阿波の「瑞岩寺」に冬安居を過ごす。
【二十五歳】 「瑞岩寺」の古海師に、阿波の「慈光寺」住持に推挙されるが固辞。次い住持に推挙され で淡路の「興国寺」に推されるも辞し、「瑞岩寺」の壁間に題して江戸にるも固辞江戸に 至り、芝高輪の仏日山「東禅寺」に寓す。小田原の麟祥山「紹太寺」の住持遁すに挙げられるも辞す。
【二十六歳】 摂津の山庵に寓するも只口腹の為に使役せられ、安禅誦経の暇なく独処を止む。
【二十七歳】☆高野山に亡母のために石塔を達つ。常々入唐の志あるも国禁を以て果たさず。
入唐の志 ☆大阪「法雲寺」に寓し、隠元禅師長崎渡来を聞いて参見せんと欲するも寺首廓道師に留められて冬安居を過ごす。
☆真政円忍律師に戒を受く。
|
黄檗の宗風に参究
【二十八歳】 ☆鉄崖、鉄機等と共に長崎に赴き、「興福寺」の隠元禅師に参見し入堂を許され、孜々として(努め 励む)黄檗の宗風を究む。
隠元禅師に
☆隠元禅師の示衆の偈に所見を述べて一偈を呈す。
参見 威音那畔の先を転破して:自己本来の面目(本分)を自覚して
工夫日用禅に非ずということ莫し:一々の生活そのものが禅になった
忙中静裡餘事無し:忙中も心は静かで全てが真実だ
突出す峯頭月一圓:山上遙か上空に満月を吊したゾ
萬法帰一に ☆隠元禅師垂語して曰く『萬法一に帰す、一何の処にか帰す』これにより
疑情 疑情息まず。
●長崎にて、杭州府補陀落山の『天然古木の観音像』を購入して、後に浄住寺に安置し『古木観音菩薩像記』を作る。
木庵禅師渡来 ☆木庵禅師渡来。分紫山「福済寺」に入る。
☆隠元禅師摂津慈雲山普門福元寺に赴く。
☆鉄崖等と留まって、河東山「禅林寺」に寓し、木庵禅師に依止せん(弟子として使えて教えを受 けること)と欲す。
開 悟 ☆一日窓を開き『森羅萬象一法の所印』なることを明らむ《自我の自己から真理の自己へ翻轉》。是見 解なることを知り分紫山の木庵禅師の開示(教え説示すること)を求む。
筆 談 木庵禅師「我が宗語句無く、亦一法の人に與うる無し」と書するに、「某三千里の外より法の為に来 る、豈方便無からんや」と答う。これにより木庵禅師に依止せんことを求むるも、禅林寺主許さず、已 むなく京師(首都)に回らんとす。
☆時に長崎奉行これを聞き通辞をして「この僧、真に志しあり、他日大器を成さん」と寺主を説かしめ留められる。後に是を回想して「今の因縁は実に長崎奉行の徳庇(徳によってかばう。お陰をこうむる)なり」と云う。
【二十九歳】☆木庵禅師「柏樹子」等数則の因縁を挙す。
☆木庵禅師より「福済寺」の開堂結制に侍者となることを命じられ固辞するも許されず。日夕奉侍して倦色なし。昼は公務を処理して、夜は経行打坐して工夫をなす。小参に問答して好商量と評される。
【三 十 歳】即非如一禅師長崎に来舶し、聖寿山「崇福寺」に入る。
【三十一歳】☆即非如一禅師の冬安居に参じ問答する。即非如一禅師手ずから書して「汝が機峰甚だ俊利なり、 山僧汝が為に助喜す」と。木庵禅師「今日の法戦利あり、當紫山の英傑に紫山の英傑と称すべし」と賞される。
「慧覚」の名、☆一たび口を開き理を辨ずるに至りては電飛風発一座皆慴服し(恐れ従う)
「慧江湖達する。 覚」の名、江湖(江西湖南=僧の集まる処)に達する。
|
実践時代
稲葉正則候
☆小田原の麟祥山(りんしようざん)「紹太寺(しようたいじ)」の檀越『老中稲葉美濃守正則候』使いを馳せ「麟
紹太寺住持祥山紹太寺住持招請の書」を長崎奉行に嘱(しよく)して(頼んで)齎(もた)らして到る。已む招請得ず諾(だく)す。
【三十二歳】
☆春、長崎出立。
☆二月大阪「普門寺」で隠元禅師に省覲(しょうきん)(おめにかかる)。辞するに及び偈を示される。老倒休を知らず(年を重ねたが休む暇がない)東西に兔角(とかく)を覚ゆ(あれこれ雑用が多い)曽て紹太を経て過ごす(紹太寺は拝塔したことがある)暫く一宿覚と為す(キシッと祖師方の末席を汚したい)
紹太寺入山
☆四月四日「紹太寺」到着。檀越稲葉正則候、使いを遣わし礼を厚くして慰問す。
稲葉候、規矩(きく)を 又江戸屋敷に請われて相見(しようけん)し、山門の旧弊を改めて規矩咸(ことごと)く黄檗に依るこ黄檗に依ると稟白する(申し敬白する)。
☆木庵禅師を「普門寺」に上がらしめることを幕府に請う。
妙心寺第一座
☆「妙心寺」第一座に挙され、「道号を鉄牛と称し、法諱(ほうき)を道機と改む」蓋し(思うに)木庵禅師の命なり。
【三十三歳】
☆木庵禅師「普門寺」招請の書を携えて長崎「福済寺」に到る。十月六日、木庵禅師に随い長崎を発し、十月二十三日「普門寺」に到る。
【三十四歳】
☆五月八日、黄檗山萬福寺開創。八月二十九日、隠元禅師晋山。
椿沼開発計画 ☆下総椿沼「新田開発計画」有るも進まず。幕府への斡旋を請われる。老中稲葉正則候を介し幕府へ働き掛ける。
【三十五歳】
☆夏,黄檗の宗務のために江戸に在り。老中稲葉正則候屡々(るる)(度々)法要を質す。幕閣の諸執政神道を信じ仏教を排し、これが為に、仏舎利・経像など壊棄する徒あり憂うるところであった。
稲葉正則候一日神仏の事に論及し問難徴詰(ちようきつ)(難問の回答を求めること)数度に及ぶ。稲葉鉄牛禅師に辞屈して憤然として刀を握るも「法のためには死を決せり」として端座して動か帰依ず。稲葉候、座をはずして又出て来て「仏法を学ぶこと何年?」と問う。「霜星二十年」と答うるに、稲葉公は「三年」と云い、「三年の沙彌二十年の長老に神仏を論じ屈折せらるるも宜(むべ)なるかな」と云って呵々大笑して止むと、これより深く仏法を信じ国政に資するという。稲葉正則候鉄牛禅師に帰依の名場面であります。
【三十六歳】 老中稲葉正則候、諸宗の硯徳(けんとく)及び老儒に疑問十余条の答えを求むるに首肯(しゆこう)を師資の礼得ず。時にその解を求められ「筆を執(と)り和語を以て」示す。正則候は「躯矮(くわい)(背が低い)の一闍梨(いちじやり)(一人の出家)にして大知識を具えんとは」と驚嘆して帰依の念益々厚く師資(師匠と弟子)の礼をとるに到る。正式に鉄牛禅師の弟子になられたのであります。
【三十七歳】 九月四日、木庵禅師黄檗第二代住持継席。
【三十八歳】
☆黄檗(おうばく)三檀戒(さんだんかい)啓建(けいけん)を請う。慧極道明、鉄崖道空、別山道徹と共に戒頭となり五百人を領して受戒する。黄檗(おうばく)三檀戒(さんだんかい) = 二十才以上の未受戒の僧に対し、前後八日の間に、初檀に沙弥戒(三帰五戒八戒沙弥十戒法)、二檀に比丘戒(比丘二百五十戒法)、三檀に菩薩大戒(菩薩十重四十八軽戒法)を授けるもので、黄檗宗に於ける重要な法会である。隠元禅師の「弘戒法儀(ぐかいほうぎ)」という戒会の指導書がある。
【三十九歳】
☆和泉大島郡和田村の松寿山「聖福寺」の開山祖に勧請される。
大悟徹底
☆冬安居(とうあんご)臘八(ろうはつ)近く愈々(いよいよ)精彩を著(あらわ)し、坐して五更に到り報鐘を聞いて心身世界一時に粉砕して従前の礙膺(げよう)の物洞然(とうねん)として脱下す。偈(げ)を作って云う。星
【三十九歳】
☆和泉大島郡和田村の松寿山「聖福寺」の開山祖に勧請される。
大悟徹底
☆冬安居臘八近く愈々精彩を著し、坐して五更に到り報鐘を聞いて心身世界一時に粉砕して従前の礙膺(げよう)の物洞然(とうねん)として脱下す。偈(げ)を作って云う。星皎(せいこう)暁寒(ぎようかん)雙眼(そうがん)を穿(うが)つ報鐘(ほうしよう)一撃(いちげき)して髑髏(どくろ)砕く乾坤(けんこん)を撥転(はつてん)して法源(ほうげん)に徹(てつ)す意訳清らかな星と暁天(ぎようてん)の寒さが両眼を貫く釈尊のお悟りが天空一杯に広がっている早朝の半鐘が脳味噌を砕いた全世界をひっくり返して佛法の源(みなもと)に徹底した更に、三十三の偈(げ)を木庵禅師に呈す。
【四十歳】
☆登檗して木庵禅師と問答商量す。木庵禅師問う「汝報鐘(ほうしよう)を聞いて悟(ご)有りと、作麼生(そもさん)か是れ汝が悟底(ごてい)」、答えて云く「三世の諸佛我に一口(いつく)に呑却(どんきやく)せられん」、木庵禅師う「実頭(じつとう)の處(ところ)再び一句を道(い)へ看(み)ん」、答えて云く「碓(たい)觜(し)忽(たちま)ち花(印可証明)開き磨盤(まばん)八角を生ず」、木庵禅師云く「門より入る者は是れ家珍(かちん)に非ず。空より放下して受用窮(きわ)まりなし」。一喝して礼拝す。木庵禅師云く「吾が宗、子に到って大いに行われん」と。乃ち偈を示す一喝(いつかつ)當機(とうき)疾(しつ)當機(とうき)端的別なり全提(ぜんてい)す正法眼(しようぼうげん)通變(つうへん)時(とき)に臨(のぞ)んで活(かつ)す
伝法の証(あかし)次いで拂子(ほつす)一枝を付され、又一偈を以て信を表わさる。云く珊瑚(さんご)撃破(げきは)す十州(じゆつしゆう)の春萬派(ばんぱ)千江(せんこう)一口(いつく)に呑む臨済(りんざい)の宗風(しゆうふう)正続(しようぞく)するに堪(た)え任縦(にんじゆう)し顕発(けんぱつ)して家門を振るうことをここに、鉄牛禅師がお悟りを開いたことが、師匠の木庵禅師によって証明されて「印可」が渡されたのであります。
☆松隠堂に詣(もう)でて開山隠元禅師を礼するに忻然(きんぜん)として(喜んで)偈(げ)を示して曰く個事(こじ)を頂承(ちようしよう)す鉄牛の機(き) 重関(じゆうかん)を衝破(しようは)して百囲(ひやくい)を解く月白く風清くして至徳(しとく)を養い雷轟(らいごう)電撃(でんげき)全威(ぜんい)を験(げん)す眼力を忘れず心光(しんこう)大に空華(くうげ)を滌盡(しようじん)して道(どう)微(び)に入(い)る時節因縁相(あい)際会(さいかい)(相出遇う)す亳頭(ごうとう)(細い毛)聊放(りようほう)(惜しげもなく捨てて)盡(ことごと)く先輝(せんき)木庵禅師?杖(しゆじよう)を贈らる。
☆稲葉正則侯(いなばまさのりこう)、鉄牛禅師得法(とくほう)を聞かれて忻躍(きんやく)に勝てず、使いを馳(は)せて江戸屋敷に帰らしめ公務の暇に佛道を論ず。
☆小田原城西の「牛臥山」を闢(ひら)いて(土地を斬り開く)麟祥山(りんしようざん)「紹太寺(しようたいじ)」の新寺 地と為す。活動開始であります。
【四十一歳】
☆正月十二日、「紹太寺(しようたいじ)」興造の工はじまる。
☆幕府下総「椿沼新田開発計画」を許可する。
三つの大願
☆法弟鉄眼道光(てつげんどうこう)禅師が大蔵経の刊行事業について庇護(ひご)を乞うことを託されて、我に『三つの大願』あり「一つには大法を弘め」「二つには一山を開き」「三つには大蔵を刊刻し」法宝を興立(こうりゆう)するなり。二願既に成り、今鉄眼公これを興(おこ)さば吾が願い成ると大いに喜ばれたのであります。
☆十二月八日黄檗山(おうばくさん)「萬福寺(まんぷくじ)」落慶法要(らつけいほうよう)。
【四十二歳】
☆四月十九日重病となり八月に至り病勢ようやく衰え麟祥山(りんしようざん)紹太寺(しようたいじ)に回る。
☆秋、麟祥山(りんしようざん)「紹太寺(しようたいじ)」竣工。十二月八日晋山、山号を「長興山(ちようこうざん)」と改める。
☆相州足柄下郡鍛冶屋村の諸善士等、古寺を復興して開山となす。本光山(ほんこうざん)「瑞(ずい)応寺(おうじ)」と改める。
☆古黄檗の法叔(ほうしゅく)虚白性願和尚より、語録二巻并詩扇一枝を恵まれる。鉄牛禅師の名前は中国にまで聞こえていたのであります。
☆武蔵葛飾郡須田村の香積山(こうしやくざん)「弘福寺(こうふくじ)」の住持に請われる。茅庵(ぼうあん)(茅葺きの粗末な家)を誅(ちゅう)(こわす)して「通玄庵」と号す。
四十三歳】
☆江戸白金台に紫雲山(しうんざん)「瑞聖寺(ずいしようじ)」開創の議に参画、木庵禅師を開山に請う。
六千両を助成 ☆幕府から資金六千両を助成されて、下総「椿沼新田開発計画」の計画を助ける。
【四十四歳】
☆長興山(ちようこうざん)「紹太寺(しようたいじ)」堂宇(どうう)殆(ほとん)ど成る。
☆「紹太寺(しようたいじ)」冬期結制、堂に在って激策(げきさく)す。
☆「弘福寺(こうふくじ)」開山祖となす。
【四十五歳】
☆武蔵葛飾郡西葛西領須崎村の「牛島の地」を選んで「弘福寺(こうふくじ)」の地に卜(ぼく)(選び定める)する。
【四十六歳】
☆黄檗山(おうばくさん)「萬福寺(まんぷくじ)」開山(かいさん)隠元(いんげん)禅師(ぜんじ)示寂(じじやく)(亡くなられた)。
隠元禅師示寂
☆江戸の壇信徒「弘福寺(こうふくじ)」を剏(そう)する(創する)に開山に請わる。
☆鳥取「興禅寺(こうぜんじ)」に授業師提宗和尚の塔を掃(はら)う。
☆和泉大島郡和田谷上村の松寿山(しようじゆざん)「聖福寺(しようふくじ)」の開山(かいさん)に請われ赴く。
☆駿州の「福源庵(ふくげんあん)」の開山(かいさん)になる。
【四十七歳】
☆駿河富士郡松鶯村に古郡重年公「富士川の築堤」成し「加嶋新田十五か村」
富士川の築堤 の功を成し、福寿山(ふくじゆざん)「瑞林寺(ずいりんじ)」を開創して開山(かいさん)に請われる。
☆下総の「椿沼新田開発工事」成る。
☆紫雲山(しうんざん)「瑞聖寺(ずいしようじ)」にて「黄檗(おうばく)三檀戒(さんだんかい)」啓建(けいけん)、羯磨(こんま)阿闍梨(あじやり)になる。戒子三百名。
【四十八歳】
☆紫雲山(しうんざん)「瑞聖寺(ずいしようじ)」第二代晋山(しんざん)開堂(かいどう)。江戸城内の小亭を贈られ「瑞聖寺(ずいしようじ)」に移築して「達観亭(たつかんてい)」と扁する。
☆春以来の飢饉(ききん)に当たり衣盂(えう)(法衣と食器類)を売り食を節して施食す。
☆紫雲山「瑞聖寺」で冬期結制、納子百五十余人参堂。
☆長興山「紹太寺」に寿像が造立される。
【四十九歳】
☆紫雲山(しうんざん)「瑞聖寺(ずいしようじ)」で冬期結制。
☆武州豊島郡四谷鮫橋に大覚山(だいかくざん)「圓應寺(えんおうじ)」創建、開山(かいさん)に請われる。
【五十歳】
☆清国(しんこく)福建省(ふつけんしよう)の福城靖藩主、左都督楊大紳の「臨済正宗三十四世」「開法長興」「鉄牛機印」の印書三章、林時亮(じりょう)の金扇「牛翁大禅師開法図」を贈られる。
☆福建省(ふつけんしよう)泉州府(せんしゆうふ)温陵(おんりよう)「開元寺(かいげんじ)」の石帆(せきはん)禅師(ぜんじ)が書及び観音像を送り来る。
◎超(ちよう)宗格(しゆうかく)上座(じようざ)に付法。
◎獅巌(しがん)如吼(によく)上座(じようざ)に付法。
◎龍堂(りゆうどう)如珠(によしゆ)上座(じようざ)に付法。 |